後藤則敬さんの撮影レクチャー

子供達から信頼の厚い人物

後藤則敬さんは東京の下町で暮らすおじいさんです。
幼い頃からカメラ収集が好きだった父親の影響で写真撮影を趣味にしている後藤則敬さんは近所の子供達にも「カメラのおじさん」として知られています。
十代の頃はアメリカやヨーロッパに渡って撮影技術について学びたいと考えていたのですが、経済的な問題で断念しました。
アルバイトをしながらお金を貯めるのはそう難しい事ではありませんでしたが、後藤則敬さんには下に数人の兄弟姉妹がいますので、彼らのために自分の稼ぎを貯めておきたかったのです。
家庭は経済的には裕福な方ではありませんでしたから、両親の負担を少しでも減らしたかったのです。
兄妹から慕われている後藤さんは彼らにも写真撮影の技術を教えていました。
牛乳パックで作ったお手製のカメラを使い、良く野外で撮影大会を行なったのです。
こうした後藤家の経験は後々にも受け継がれ、甥っ子や姪っ子もお手製カメラを使って遊ぶようになりました。
大学時代、自身の写真に自信を抱いた後藤さんは友達と協力して個展を開催しました。
街中のギャラリーを借りて行なった小規模な個展ですが評判は上々であり、後藤さんは人に自分の作品を見てもらう喜びを味わったのです。
この経験をきっかけに後藤さんは本格的なカメラマンの道を進もうと心に決めました。

後の伴侶との出会い

後藤則敬さんは大学卒業後にカメラマンとして大成したいと考えていましたが、父親の要望を断れずに親戚が経営している運送会社に就職しました。
カメラマンとして一から修行しようと思った場合すぐには経済的な安定が見込めませんので、お父さんはそれを危惧したのです。
会社員として働きながらも写真を撮るのは可能ですから、後藤則敬さんはそう苦悩する事もなく運送会社の社員になりました。
後藤則敬さんは実務的な仕事から営業まで多様な事に適性のある人物であり、自分に与えられた役割に苦痛を感じるタイプの人ではないのです。
そのため運送会社の仕事は芸術関係とは程遠いものですが毎日楽しく働く事ができました。
その代り後藤さんは休日をフルに自分の趣味に当て、電車や植物など様々な物を被写体にして写真撮影に歩きました。
ある年の盆休みに被写体を求めて郊外の庭園に足を運んだ後藤さんは、そこで美しい女性と出会いました。
女性は後藤さんと同じようにカメラを片手に池の鯉や植物を撮影していましたが、明らかにカメラには不慣れで手つきはおぼつかないものでした。
女性を気にしながら自身の撮影に熱中していた後藤さんでしたが、女性がカメラを池に落としてしまったのに気付き、初めて声をかけたのです。
後藤さんは女性の代わりに彼女が望むポイントの撮影を行い、後に彼女の家にその写真を送る事にしました。
この人が後に後藤さんの伴侶となったのです。

カメラと同じように大切な家族

後藤則敬さんは良き伴侶ができてから以前にも増して仕事に力を注ぐようになりました。
ある程度貯金が貯まったら運送会社を辞めてヨーロッパやアメリカで写真の勉強をしようと考えていた後藤さんでしたが、家族ができた以上そうした自由な旅はできません。
この時から後藤則敬さんは自ら望んで写真を「趣味」にしようと決断したのです。
写真家の夢を捨てたのは後藤則敬さんにとって少しだけ切ない出来事でしたが、やがて自分の血を分けた子供達が生まれると寂しさは吹き飛び、家族と共に地に足をつけた生活を送る事に多大な喜びを見出すようになりました。
子供達の成長を自らのカメラで写し記憶する生活は後藤さんに新たな喜びを与えるようになったのです。
また子供達が小学校に上がると後藤さんの撮った写真を並べて家の中でプチ個展を開いてくれるようになりました。
一枚一枚家族の喜びが記憶された写真は後藤家にとって幸せの結晶となったのです。
子供の中でも末の男の子はお父さんの夢を引き継ぎ、カメラマンになりたいと言うようになりました。
中学生になる頃には自分で貯めたお小遣いを使って一眼レフを購入し、将来専門的に写真の勉強がしたいと主張するようになったのです。
そして後に末っ子は海外へ渡り、本格的に写真の勉強を始めたのです。
後藤さんが追いかけた願いは時代を経て子供に受け継がれました。

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